むりむりカタツムリ

着地点がわからなくなった理系大学生

与える人間と与えられる人間

人間っていろんな人がいると最近思う。

ノーベル賞のような偉大な賞をもらって社会に貢献している人、毎日バスを運転して渋滞に揉まれながらもお客さんを目的地まで安全に送り届ける人、小説家になって物語や小説を書くことにより誰かの心を癒したり元気づけたりする人、自信の第一志望の就職先に入りメンタルやられて自殺する人。考え出したらキリがない。世の中にはいろんな人がいる。

道ですれ違う人、高速バスで偶然隣になった人それぞれ人生がありその裏には何かの背景がある。それは私の知りえるところではないけど

自分は漠然とどんな人間なのか考えてみた。何かに秀てるわけでもないし、イケメンでもないし高身長でもない。ただの大学生だ。人並みには勉強を頑張りそこそこの大学に入り、特別友達が多いわけでも、話が面白いわけでもない。他人と自分は別に違っていたっていいし他人に笑われる人生であろうと気にしない。どんな傷でも受け入れるし、その覚悟もある。ここだけは強みかな

この前、将来のことが漠然と不安になった。自分はどこでどのように働き、なんていう会社に勤め、彼女の名前は何というのか。結婚相手はどんな人なんだろうか。いろいろ考えた。でもそんな先の未来のことなんてわからない。わかるのは映画「天気の子」を見て最終的にこうなるだろうな。みたいな先の読める展開しかない(決して批判しているわけではない。素晴らしい映画だったと思う)そんなこと気にしたってしょうがないのに考えてしまう。それは今の自分にとって必要なことなのかもしれないが、窮屈であるのには違いない。苦しかった。誰かにこの根源のわからない話を聞いてほしかったし、「あなたは十分頑張ってるよ」って言って欲しかったのかもしれない。夜が来るのが怖かった。また夜になるといろんなことを考えてしまうから。そして寝れなくなる。この繰り返し。

そんなとき、一つの小説にあった。その本に会ったときに、私は運命的出会いを果たした。大げさかもしれないが、その人の小説を読んでいると、本当に元気づけられる。こんなに素晴らしい作品はない。言葉一つ一つに棘があるようで、どこか暖かい。嫌なことがあったり、物思いにふけたい夜は毎日その小説を読み、自分を保った。その時私は与えられたのだ。具体的にあげることは烏滸がましい。その時私は初めて、自分の人生に向き合いたいと思った。与える人間になりたいと思った。与えられ続ける人間になってはいけないのだ。他人にどういわれてもどんな風に見られても私は一人しかいない。最後に私を守るのは結局自分自身だと再認識した。

どんなコンテンツでもいい、今話題のYouTuberだって視聴者に笑いや知識、さまざまなものを与えてくれている。今日だってよく行く吉野家の店員が並盛でお願いしたのに大盛にしてくれた。そのことは口には出さなかったが、吉野家ヘビーユーザーである私にはすぐに分かった。私は、「ありがとうございます。」とだけ一言。もし、「いつも来てくれているから大盛にしといてあげるね」とまるで恩を相手に着せるかのように言えば私は嬉しい反面、少しだけ悲しくなるかもしれない。しかし、相手に何も言わず、何も見返りも求めず、普通に業務に戻るおばちゃん。好き。笑

 

そしてまた話は戻るが、私は明日その小説家さんとお会いすることになっている。

こんなに嬉しいことはない。人生で一回あるかないかの経験である。

生きてきた経験の差でいえば天と地の差がある。もしかした私の不甲斐なさにガッカリされるかもしれない。嫌われかもしれない。怖い。

でも、これも私の人生の一部になる。早くお会いしたいです。

また、お会いした時の出来事書きます。よかったら読んでください。